整形外科靴技術

(Orthopädie schuh technik)

ドイツ整形外科靴技術が産声を上げたのは、1919年のことです。 

第1次大戦敗戦後の当時のドイツでは、多くの戦傷者が生み出されていましたが、時を同じくして、歴史上初めて社会権(人間の生存権)を明記したワイマール憲法が制定されたため、戦傷障がい者への対処が大きな政治課題になっていました。

そうした社会政治情勢の中で、国による社会政策の一環として、整形外科医たちが、戦傷による足部障がい者への対処のために、製靴技術者に協力を要請したのが、今日につながるドイツ整形外科靴技術の出発点です。

整形外科医たちが、優れた技術を持った靴製造職人親方=シューマッハーマイスター(Schuhmahermeister)たちの協力を得て、足部障がい者の社会復帰に必要な特殊な靴技術の開発に着手したのです。
つまり、医者の仕事を靴技術者が手伝うことによって生み出されたのが、この技術だったということです。 

その意味で、この技術は、最初から医者が主導した、医学的根拠に基づいた製靴技術だったわけで、当然、それに協力した靴職人たちにも、医学的知識と共に医療にかかわる職業としての高いモラルが要求されました。 

靴の構造について(上)と同時に、医師からフットケアについて(下)を学ぶ(1920年)
“Chronik Der Orthopädieschuhtechnik 1900-2004”(Albrecht Breymann 2004)

もっとも、ドイツでは中世以来、多くの職人マイスターの中でも製靴マイスターは社会的に特別の地位が与えられており、すでにこの時期には、戦争による障がい者の急増に対応して、「整形外科的な」靴を製作できるマイスターたちが、戦時中から各地でグループを作り、王立診療所との契約で独自に供給を開始していました。

そして1917年には、そのような技術を持ったマイスターが一堂に会し、「整形外科的な」靴製造職人親方(orthopädischer Schuhmahermeister)の全国連盟を設立していました。

1927-30年頃のワークショップ風景
“Chronik Der Orthopädieschuhtechnik 1900-2004”(Albrecht Breymann 2004)

そのような背景があってのことですから、医者が主導するといっても、実際は、困って頼んできた医者に、経験豊かな製靴マイスターが「協力してやろう」という関係だったようで、この職業的自負心は、今日の整形外科靴マイスターにも受け継がれているようです。

それはまた、主導する医者たちに対しても、靴に関する知識と技術を熟知することを要請し、医学の領域でも靴の役割が周知されることになります。

このように、医者と靴職人との相互尊重による真摯な共同事業として、医療技術としての整形外科靴技術が生み出されることになりました。

専門学校での実習(1931年)
“Chronik Der Orthopädieschuhtechnik 1900-2004”(Albrecht Breymann 2004)

そして、20年近いドクターと製靴マイスターとの協働によって、多大な技術的成果をあげると同時に強固な教育システムが確立され、1937年に整形外科靴マイスターの資格制度が整うことになります。

 

新設専門学校での授業(1937年)
“Chronik Der Orthopädieschuhtechnik 1900-2004”(Albrecht Breymann 2004)

そこでは、製靴技術を身に付ける前に、解剖学、生理学、病理学等の医学的知識と臨床経験に基づく対処技術を獲得することが必須となり、ここに、伝統的な靴製造職人親方(Schuhmahermeister)とはまったく別の、医療という対人技術と製靴という製造技術の両面を併せ持った新しい専門技術者である整形外科靴製造職人親方(Orthopädieschuhmachermeister=OSM)が誕生することになったのです。 


第2次大戦中の停滞の後、戦後は、東西分裂下で体制の違いはありましたが、東西共に大きく進展した医療・福祉行政に支えられて、技術も制度も飛躍的に発展することになりました。

特に、1960年代後半以降、「社会的福祉国家」を掲げて先進福祉社会への大きな歩みを遂げた70年代の西ドイツにおいては、他の多くの福祉制度の充実とともに、技術的にも制度的にも大きな前進を遂げました。

そして、70~80年代には、ドイツにおける障がい者福祉の先進性を特徴付ける重要な技術のひとつとして、それを担うマイスターの職業とともに、国際的にも高い評価を得ることになりました。 

また、この技術とマイスターたちの活動を支えるための、素材、機器類の開発等の産業も形成され、同時に従来の靴産業自体の機械化、量産化の流れとも相まって、一方では、この技術を支える「整形外科靴産業」ともいうべき裾野産業が育つとともに、他方では、この技術を取り入れた、後に「ドイツ健康靴」として国際ブランド化する一般既製靴生産も定着してきました。

それがまた、マイスターたちの技術の向上、発展に寄与するとともに、生産工程の合理化、効率化をも達成することになり、従来の個別生産を前提とした技術が、産業的に供給される特殊な機能性を有した多様な半製品の靴等を活用する技術としても発展を遂げていくことになりました。

ショットが学んだマイスター学校
(1998年撮影)

ところで、マイスターの資格を取得するためには、高校卒業後、専門学校での医学的知識の勉学と高度な製靴技術の実習に加えた、マイスター制度(複数のマイスター工房での見習制度)のもとでの厳しい修業によって、理論と実技を身に付けなければなりません。

他のマイスターも同様ですが、本来マイスター制度は、その職業を開業するためになくてはならない資格制度で、日本のように「公共の福祉に反しない限り」誰もが自由に好きな業種で開業できる社会制度とは異なりますので、個々の職業に必要十分な技能を十全に身に付けることが絶対条件とされています。

マイスター学校の副学長
(1998年当時)

当時の制度では、5年間の修行(夜間の専門学校での勉学と、5人のマイスターを巡る見習い実習)によって一人前の職人(ゲゼレ)として認定された上で、その中からマイスターを目指す職人が、さらに2年半、マイスター学校での勉強と修業を終えて資格試験に合格することによって整形外科靴マイスター(OSM)になれることになっていました。

1998年撮影
マイスター学校で卒業制作に取り組む学生

私たちが、カール=ハインツ・ショットから学んでいた、前世紀末から今世紀初頭の時期には、そのようなマイスター約4000人が全国各地で活躍し、ドイツの医療・福祉に貢献していました。

1999年撮影
古い教会の建物を改装したマイスター工房

しかし、ちょうどその頃、ドイツ健康靴ブーム最高潮の日本事情の見聞のために来日したマイスターたちが、デパートなどに出店した「ドイツ健康靴ショップ」などを見学し、「日本の皆さんから『お客さまは神様です』の考え方を学びました。これからは、自分たちのビジネスでも見習わなければならない」と、真面目に語っていたことが象徴していたように、東西統一後10年を経た当時が、ドイツ整形外科靴技術にとっては転換期だったようです。

1999年撮影
マイスター工房の受付カウンター

それまでは、医療・福祉に特化した靴工房として、一般既製靴の販売店とは完全に異なっていたマイスター工房が、今世紀に入ると、スポーツや健康をコンセプトとした既製靴販売のショップを併設する流れも一般化してきました。

2000年代には、マイスターたちの情報月刊誌に、集客を考慮した店舗設計のアイデアが毎号特集された時期もあり、今では、私たちがショットに案内されて見学した当時のマイスター工房とは様変わりしているようです。

1999年撮影
マイスター工房での職人たち

ドイツにおいて1970~80年代に花開いた整形外科靴技術も、東西統一後の財政事情と福祉政策の劇的な後退、さらには、EU統合によるマイスター制度自体の見直しを含めた規制緩和政策等々の、前世紀末以来の経済政治社会情勢の推移の中で、今日では、整形外科靴技術もマイスターたちの置かれた状況も、大きな変化を遂げてきているようです。

整形外科靴による自立歩行

NPO法人 靴総合技術研究所